一刀流兵法について

現在、一刀流兵法は、一刀流(小野家、徳川将軍家)と小野派一刀流とが存在します。(因みに北辰一刀流が存在しますが、千葉家伝来の剣術と一刀流とを合わせたものですので、ここでは一刀流としては含めません。)

この一刀流と小野派一刀流とでは、組太刀が全く異なります。その理由は私には分かりません。が、言えることが一つあります。

現在の小野派一刀流の刀法は、一刀流兵法十二箇條目録の教えとは全く異なった刀法である

ということを。

江戸時代中期の平和な時代になり、一刀流は小野家より津軽家へ伝わり、町道場が幾つも出来、一般の武士にも一刀流が広まっていたようですが、その一刀流と将軍家及び小野家に伝わる一刀流とは、異なったはずです。万が一将軍家及び小野家に伝わる一刀流が漏れたら、それは即ち将軍家の剣術の手の内が明かされるわけで、命取りになります。そのため将軍家及び小野家に伝わる一刀流は、ひた隠しにされたことでしょう。

現在、一刀流の組太刀は、太刀五十本残されていますが、伊藤一刀齋、小野次郎衛門忠明までは、二十五本しかありませんでした。次代の小野次郎衛門忠常の時に、急に二十五本増えて五十本になっています。命のやり取りの刀法一本を編み出すにも長い年月が掛かるのに、代が変わって急に二十五本も増えるというのは、全く有り得ません。あるとすれば、余程の理由によるものです。

そこでこの五十本を詳細に検証したのですが、分かったことがあります。それは、

伊藤一刀齋、小野次郎衛門忠明までの二十五本は日本刀(真剣)に於いて効果的な遣いとなり、忠常により増えた二十五本は木刀に於いて効果的な遣いとなる

ということです。そこで言えることはこうです。

小野次郎衛門忠明までの二十五本は日本刀用の組太刀であり、忠常により増えた二十五本は木刀用の組太刀である

ということです。

ここには柳生新陰流の存在が大きく関わっているのでしょう。柳生新陰流も徳川将軍家の剣術として認められています。必然的に将軍家は、一刀流と柳生新陰流とを競わせたことでしょう。競わせるに於いて、最初は日本刀で試合を行っていたと思いますが、それでは命に関わってきますので、ある時から日本刀が木刀に取って代わったのではないでしょうか。日本刀と木刀では構造も特性も全く異なりますので、自ずと遣い方も変わります。従って、試合で勝つために、木刀で効果的な遣いを考え出したことでしょう。それが忠常が増やした二十五本なのでしょう。因みに、柳生新陰流に於いて、木刀と韜撓の組太刀が存在しますが、それぞれ全く異なるものです。木刀の組太刀は日本刀では効果的かもしれませんが、韜撓の組太刀は日本刀では全く効果的ではありません。このことから、柳生新陰流でも、日本刀による命のやり取り用の刀法と試合用の刀法が存在したことが分かります。

忠常が増やした木刀に於ける試合用の組太刀二十五本をどんなに稽古したところで、日本刀では遣物にはなりません。ここのところを理解して稽古しないと一刀流は身に付きませんし、自ずと大東流も身に付きません。