大東流の術と技について

大東流の術というのは、大雑把に言いまして、正しい姿勢を大前提に、体捌、切落の遣い、手の返し、の三つです。三つしかありません。

体捌:体捌は、大東流に於ける術が遣える膝行の遣いに、すべて集約されています。

切落の遣い:切落の遣いと合氣上げの遣いは一体で、一刀流を修行することでしか身に付きません。

手の返し:この手の返しは非常に多用しています。そして手の返し方が非常に重要で、返し方がほんの少しでも違えば、術は遣えません。そしてこの手の返しは、一刀流を修行することで身に付きます。

この三つの組み合わせで、技となります。何時如何なる状況状態にあっても常に正しい姿勢を保持することで、術が遣える膝行も、切落の遣いも、手の返しも、可能となります。

そしてこれらの術で敵の氣を外し、外し続けるのです。そうすれば自ずと敵の身体は崩れ、崩れ続けます。

ほとんどの方が 合氣とは、無力化し身体を崩すこと と捉えていますが、これは大きな間違いです。決して無力化することでも身体を崩すことでもありません。ここのところを間違えると、辿り着く場所が全く異なってしまいます。

大東流に於いては、敵の攻撃方法に応じて行うべき対処法は、一つだけであり、決まっています。その対処法が上手くいけば、その時点で敵は畳等に俯せになっています。その対処法が遅れたり極まらなかった場合、切落の遣い、あるいは合氣上げの遣いを行えば、その時の敵の状況状態に関わらず、敵の氣を外し続けることが可能となります。それが延々と続きます。敵の状況状態によって、臨機応変に変化していくのです。敵が確実に動けなくなるまで、繋がっているのです。その繋がっているものを一つ一つバラバラにすると、秘傳目録のような多くの名称の付いた技となります。

その秘傳目録の技一つ一つを別物と捉えれば、必ず迷路に嵌り込み、技から術を捉えようとしたら、大きな間違いを犯します。どんなに技を稽古したところで、真の術は身に付きません。稽古した技は形ばかりのものでしかありません。例えば下の画像

武田惣角 撞木

武田惣角先生の撞木と言われる技の画像です。が、真の撞木の技は、このように立った状態で敵を担ぎ上げる技ではありません。そのため、画像のように、立って敵を担ぎ上げた状態の撞木にするにはどうしたら良いか等考えたり稽古したりするのは、無駄な時間を過ごすこととなります。意味の無いことです。良く考えてみて下さい。何十キロもの体重のある人間を、持ち上げることが出来ますか? 不可能です。先入観を捨てて下さい。固定観念も捨てて下さい。大東流の技を結果から捉えようとすると、大きな間違いを犯すことになります。

 

大東流では、術を遣うことで、結果的にそれが技となります。技というものは、あくまでも結果でしかありません。そのため、技を掛けようとしたら駄目なのです。絶対に掛かりません。逆に隙が生まれて反撃され、命を落とすことになります。技を追い求めると、迷路に嵌って抜け出せなくなります。

現在表面化している技というのは、敵の攻撃に於いて 手刀 が大前提になっています。そのため、敵の日本刀を持っての攻撃に対しては、全く有り得ない技となっており、確実に斬られ、刺されてしまいます。間合い、身体の遣い、手の遣い等、全く異なっているからです。

 

私はこのHPの中で、大東流の術及び技について、詳細を書くつもりは全くありません。先にも書きましたとおり術は繋がっているので、書きようがないのです。一刀流及び膝行の遣いが身体に染み込めば、自然と術を遣うようになります。否応なしにそのように身体を遣います。そのようにしか身体が遣えません。その身体の遣いが即術となります。

真の術及び技を身に付けるためには、何よりも基礎基本の稽古を積み重ねることが大変重要です。