大東流の根源は一刀流兵法

大東流に於ける世に公表されている史実としては、新羅三郎源義光を遠祖とし、義光の子義清の孫信義が甲斐武田村に住み武田性を名乗り、その武田家の家伝の武術も伝承され、その家伝の武術が江戸城内殿中護身武術である御式内に改訂され、将軍家警護役や老中、重臣に教えられたとされています。さらにその御式内は武田惣角先生に至るまで武田家に伝わってきたとされています。

が、私は違うと思っています。

上記のようになった原因はおそらくこうでしょう。武田惣角先生に御式内を伝えた西郷頼母が家老を務めた会津藩、その会津藩初代藩主の保科正之は徳川家康の孫で、幼少の頃武田信玄の四女武田見性院の養子となり、さらに武田信玄の家臣で家康の妹を妻とした保科正直の子正光の養子となり、その後会津藩藩主となると共に、徳川家光の命により、家綱の後見役となって家綱の命を護るために御式内を作ったがため、元々は武田家に伝わる云々となったのでしょう。しかし総合的に判断するに、これが大東流の史実とは考えにくいものがあります。

大東流には、書き物に記された資料というものは、一切ありません。古流は、自分の命を護る武術という特性上、形の残る資料が存在する方がおかしいのです。形の残る資料にするということは、自分の命を護る術の手の内を明かすことと同じです。そんな資料が盗まれ、明るみに出れば、即命を落とすことになります。だから武術は、形の残らない、口伝で行われてきたのです。御式内(大東流)も同様です。御式内は将軍家の命に直結しますから、徹底的に秘密裏に伝えられたことでしょう。そのため大東流を検証する場合は、術より検証する以外有りません。

大東流というものを術から検証していくと、その術は、一刀流そのものです。そのため大東流の術の根源は、一刀流に於ける素手術、と思わざるを得ず、一番最初に遣ったのは、伊藤一刀齋もしくは小野次郎衛門忠明ではないか、と思う程です。

その一刀流は、将軍家剣術として、小野家及び徳川将軍家直系のみに伝わってきています。江戸時代初期から中期に掛けて、他家(水戸家、尾張家、紀州家)には一切伝わっていません。伝わったら徳川将軍家の命が危うくなりますので、徹底的に秘密にされたはずです。従って、徳川将軍家と縁戚関係にあった武田家だとしても、一刀流が伝わるわけがないでしょう。江戸時代中期以降、戦が無くなり平和な時代に入ったことで、将軍家剣術である一刀流にスポットライトが当てられ、他家及び一般の武士でも習うことが可能となったことは考えられます。それでもその一刀流は、小野家及び将軍家に伝わる一刀流とは異なっていたはずです。

武田家にも当然のことながら、家伝の武術が存在していたでしょう。しかし武田家に一刀流が伝わっている可能性は皆無ですので、その家伝の武術は、大東流の理合とは異なるでしょう。理合が異なれば別物です。それに武田家により会津藩主に伝承されたと言われていますが、会津藩に移った後の武田家と会津藩代々藩主や家老等とは、身分が違い過ぎます。そんな武田家が江戸城内の御式内を作り、会津藩主や重臣に直接会い、教え、代々伝えてきたとは、非常に考えにくいものがあります。ハッキリ言って有り得ません。世に知られている史実は、恐らく武田惣角先生が大東流に箔を付けるために作った物語なのでしょう。

しかし、術自体は江戸城内御式内として間違いはないと思います。検証すればする程、あらゆる方向から見れば見る程、その綿密さ緻密さ等に驚かされます。江戸城内に於ける術としか考えようがないのです。如何に武田惣角先生が天才と言われようが、とてもではありませんが、武田惣角先生一人で作れるような代物ではありません。そんな生易しい術ではありません。

一刀流は、将軍家剣術になったことで、そのすべてが水面下での存在になり、世には一切知られなかったことでしょう。その一刀流は、保科正之が兄徳川家光に仕えた時点で、小野次郎衛門忠常より教えられているはずです。その一刀流と江戸城内将軍家謁見の間の所作である膝行とを組み合わせたものが、御式内でしょう。その御式内は先にも書きましたが、保科正之が徳川家光より子徳川家綱の後見人となり、江戸城内の取り仕切りをすべて任されたことにより、将軍家の命を護るために保科正之が作ったものです。そしてその御式内が、会津藩代々の藩主及び会津藩内の徳川将軍家お目見え可能な重職に付く者のほんの数名にのみ、秘密裏に伝えられたと思います。保科正之は、徳川家直系の血を引く身として、将軍家の命を護ることに使命を感じていたことでしょう。

その御式内は、江戸城内将軍家警護役の警護術とは、異なるでしょう。将軍家警護役の最大の役目は、謀反人を取り押さえることではなく、将軍家の命を護るために、いち早くその場から将軍家を逃がすことです。さらに将軍家謁見の間には将軍家警護役の人間はおらず、上座の隣にある控えの間にいます。そのため、警護役の人間には、御式内は必要ないのです。さらにシビアなことを言えば、将軍家警護の人間であっても、一刀流は教えられていないはずです。一番近くにいる警護役の人間に命を狙われる可能性もあるのですから、自分の命が危うくなる術を教えるわけがありません。ですので、御式内が遣えるわけが無いのです。

御式内は、あくまでも会津藩藩主及び会津藩内の徳川将軍家謁見可能な重職に付く者のみ、秘密裏に伝えられたもので、会津藩内部に於いても、それ以外の者は、御式内の存在を全く知らないと思います。保科正之は徳川家綱の後見人として、各藩の藩主等が家綱に謁見する場合は、必ず同席していたことでしょう。そのため、家綱の命が狙われた際、家綱をその場から逃がすための時間を稼ぐために、御式内が必要だったことでしょう。だからといって、江戸幕府の老中達や重臣達にも御式内を教えたとは、考え難いものがあります。教えてしまえば他藩に御式内の手の内を明かしてしまうことになりますので、家綱の命が失われる可能性が高くなります。他藩主は、チャンスがあれば自分が天下を取りたくて狙っているわけですから、そのチャンスを自ら与えるようなことは、絶対にしないでしょう。保科正之以降は、あくまでも自分達が将軍家に謁見している際、将軍家の命を狙われた時にその命を護ること、そして言われなき理由から自分達の命を護るために、遣われてきたことでしょう。

会津藩内で御式内が伝われていたと言っている人もおられるようですが、日本全国の藩が保科正之が徳川家康の孫であり、家綱の後見人であることを知っているわけですから、様々な情報を得るために、他藩が会津藩へ隠密を送り込んでいたはずです。そんな状況の中で会津藩内で御式内を遣えば、容易に他藩に漏れてしまい、家綱及び徳川家の命を護ることが難しくなります。そのために、絶対的に秘密にしておかなければなりません。

御式内というものは、会津藩藩主及び徳川将軍家謁見可能な重職に付く者のほんの数名にしか伝わっておらず、あくまでも秘密裏に、資料も残さず伝えられてきたことでしょう。資料が残っている方がおかしいのです。