独り言 壱

【その壱の壱】

もう10年以上前からですが、古流が、流関係なく、おかしくなってしまいました。

修行者が流の理合を自分勝手に解釈し、あるいは無視し、術が変わってしまっているのです。

琉球王家本部御殿手 故上原清吉先生は私にこう仰いました。

「古流は、何も、足しても引いてもいけないんです。」

と。

兵法二天一流 故今井正之先生は私にこう仰いました。

「理合を大切にして下さい。

今の人達は、こうした方が効果的だ、いやこうした方が効率的だ、と言って、理合を全く無視して術を変えてしまっています。

理合いは、創始者が自分の命を懸けて、血を流し、作り上げたものです。

その理合いは、現在の平和ボケした私達が自分勝手に変えられるものではありません。

兎にも角にも、理合を大切にして下さい。」

と。

古流修行者の皆さんに、このお二人の先生のお言葉をしっかりと噛締めて頂きたい、と心から願っています。

【その壱の弍】

古流修行者は誰しも『自分が修行している技は正しい。』と信じています。

私もそうです。

だからこそ、今自分が修行している技が本当に正しいのか、本当に間違っていないか、疑ってかかり、流の理合に当てはめて、常に足元を見詰めている必要があります。

足元を踏み外したと気づいた時には、既に遅しです。

そこから修正することは不可能です。

ゼロ、いやマイナスからやり直さなければなりません。

足元を踏み外しても、それは自己責任です。

師匠は、先輩は、責任を取ってはくれません。

後悔するのは自分自身です。

【その壱の参】

古流の身体の遣いというのは、学校で教わってきた身体に染みついている西洋的なものとは全く反対の位置にあり、異なっています。

そのため、古流の身体の遣いが身体に染みつくまでは、大変な時間が掛かります。

まず、学校で教わってきた身体に染みついたものを抜かなければなりませんから。

その上で古流の身体の遣いを稽古するのですが、この身体の遣いは頭が全く知らない状態です。

ところが、稽古するに於いて、学校教育の弊害から、どうしても頭で考えてから稽古しようとしてしまうんですね。

ハッキリ言いまして、無駄なことです。

頭が知らないことを考えたところで、その遣いを行うことは不可能です。

現在に於いて古流の身体の遣いの稽古というのは、リハビリと同じです。

頭で考えず、まず身体を動かすことで脳に信号を送り、脳に動きを覚えさせるのです。

そして身体が答えを出すまで、只管続けるしか方法が無いのです。

「古流はすぐに使えないからダメだ。」と仰っている方がいらっしゃいますね。

そのとおりです。

現在の身体の遣い、所謂西洋的な身体の遣いが染みついた人からは、必ずその言葉が出てきます。

視点が全く異なっているんですね。

古流の身体の遣いが染みついた人の視点からすれば、年齢に関係なく、非常に理に適った身体の遣いはありません。

【その壱の四】

古流というのは、現在の視点で捉えてしまうと、全く異なった答えが出、全く異なった道を進むこととなります。

古流は、創始され、実際に術が遣われていた時代に自分が遡り、その環境、背景等の視点で捉え、様々な勉強をする必要があります。

現在の視点で捉えると、必ず『理合を無視する』結果となります。

【その壱の伍】

古流各流に幾つもの派が存在しています。

大東流にも〇〇派または〇〇伝というものが存在してきています。

が、創始者の術を追い求めていけば、派というものを存在させることは有り得ないはずなのですが。

【その壱の六】

現代武道の試合は、お互いが最高の体調に於いて行っています。

ところが古流に於いては、体調が最悪な状態に於いて相手から命を狙われます。

そのため、この体調が最悪な状態でも術が遣えなければなりません。

それがどういうことか?

お分かりになりますよね!

【その壱の七】

正座姿をみれば、その人の力量が分かってしまいます。

どんなに誤魔化そうとしても、絶対に不可能です。

正座姿は、その人の力量を正直に表すのです。

【その壱の八】

大東流でも合気道でも、『剣術の理合』と大きな声で謡っている方が非常に多いのですが、ハッキリ言いまして、その『剣術の理合』を身体で理解しておられる方がいません。

自らが剣術を修行することなく、師や先輩が『剣術の理合』と口にしたことをそのまま鵜呑みにし、自分も口にしているだけでしょう。

もっと言ってしまえば、その『剣術の理合』と口にした師や先輩も身体で理解していないことでしょう。

本当に『剣術の理合』を身体で理解していれば、『剣術の理合』という言葉を口にすることはありません。

【その壱の九】

今や、白樫の柾目の木刀の入手がほとんど不可能になっています。

原木自体も入手困難な状態です。

刃筋の稽古に於いて強烈に打ち合っている私共にとっては、非常に痛手です。

柾目でない木刀で打ち合うと、あっという間に折れて使い物にならなくなってしまいます。

今後如何にするか、思案中です。

【その壱の十】

探し物があり我が家の押し入れの中を探していたところ、時宗先生に教わっていた頃購入した柔道着が出てきました。生成りの柔道着です。

購入後漂白された晒し柔道着が流行りとなり、この生成りの道着を押し入れの中に仕舞い込んでいたようで、すっかり忘れていました。

確かに見た目は晒しの道着の方が良いのですが、着心地は生成りの道着の方が非常に良いのです。

今着用している道着はボロボロになってきているので、大変良い機会なので、この生成りの道着に変えることにしました。

【その壱の十壱】

古流は、組織化したその時点から衰退をはじめます。

組織化すると運営費、人件費等が必要になります。

その費用は、門人の入門料や月々の月謝、昇級昇段料等から捻出しなければなりません。

そのためには門人を多く集め、門人の数を維持、もしくは更に増やさなければなりません。

門人を増やすには、門人が辞めないようにする必要があります。

門人が辞めないようにするには、辞めないような稽古内容となります。

非常に甘い稽古内容となります。

それが何を意味するか、勘の良い方であればお分かりですよね!

【その壱の十弍】

もう昔のことですが、日本武道館で行われた日本古武道演武大会でのことです。

とある剣術の流のご宗家の方が、青竹をスパッ、スパッと切っておられました。

でも、どこからどう見ても小手先で日本刀を振り、刃筋が通っているとは言えませんでした。

係員が片付けていた青竹の切り口を見て、やはり!と確信致しました。

研ぎが蛤刃ではないんですね!

この時の日本刀は、ただの青竹切りの道具だったのです。

そしてこのご宗家の力量も分かってしまったのです。

【その壱の十参】

側から見て、もっと言ってしまえば、敵から見て、何をしているか分かる技は、真の技ではないんですね。

側から見て何をしているか分かる技は、実に格好の良いものです。

自分も出来るようになりたい、と思うものです。

でもこの格好の良い技、無駄な動きが非常に多いんです。

無駄な動きというのは、敵から見れば、隙となります。

自ら隙を曝け出し、「どうぞ反撃して自分をやっつけて下さい」と言っているようなものなんです。

真の術というのは、側から見ても、掛けられている人自身にも、何をしているのか、されているのか、全く分かりません。

格好の良い技には、くれぐれも騙されないようにして下さいね!

【その壱の十四】

YouTubeで大東流の動画を見るたびに思ってしまいます。

『こんな動画を公表して、よく恥ずかしくないなぁ〜。』

と。

動画や画像は、その人の力量を全て曝け出してしまうことを分かっていないのでしょうね!

道場に通われている門下生の方々が可哀想でなりません。

【その壱の十伍】

大東流では、『合氣』という言葉に囚われてしまうと、必ず足を踏み外します。

合氣というのは目に見えませんから、頭で自分勝手な解釈をしてしまうんですね。

そして、振り回される事になります。

一刀流を修行すれば、合氣という言葉に振り回されることはありません。

合氣というものを頭ではなく身体で理解しますから。

頭は誤魔化せても、身体は実に正直なものです。

合氣というものを、言葉巧みに、神秘的、魅力的、訳のわからないものにし、お金儲けをしている方が大勢います。

合氣というものは、決して、神秘的なものでも、魅力的なものでも、訳のわからないものでもありません。

理合の根幹であるだけです。

真の大東流を修行している人は、合氣という言葉を表立って使うことはありません。

理合の根幹であるがために、使う必要がないのです。

人の生き死にの場面では、神秘的なものや魅力的なものは一切通用しません。

【その壱の十六】

武の世界では、師をカリスマ化した瞬間、衰退します。

何故師をカリスマ化しなければならないのか考えれば、すぐにお分かりでしょう。

真の術が伝わっていれば、師をカリスマ化する必要は全くありません。

たとえ師、もっと言えば、宗家、創始者であっても、あくまでも通過点の一人でしかありません。

師をカリスマ化するのは、門下生各々に自信がないからです。

カリスマ化することで、自分の価値を高めたいのでしょうね。

でも心がその奥底で、『この技は違うよね!』と叫んでいるのではないですか?

違うと思えばその師から離れれば良いだけなのに、今まで通ってきた時間が無駄になってしまう、一度その師の元で修行を始めたら最後まで通すのが義理・・・、などと思い込み、自分で様々な理由を作って辞められなくしています。

勿体ないことです。

【その壱の十七】

古流の術及び技を科学的に分析、解明しようとしていらっしゃる方が、多くいらっしゃいます。

古流を実際に修行していらっしゃらない方程、分析、解明しようと一生懸命になっておられます。

が、はっきり言いまして、不可能です。

以前、私のブログに於いてこのことを書いたところ、

「あなたは間違っている。技を科学的に分析、解明出来ないようではダメだ。」

とコメントしてこられた方がいらっしゃいました。

あまりにもしつこくコメントして来られたので、このように返信致しました。

「その科学的に分析、解明された技が、確実に自分の命を護ってくれるのであれば、私も取り入れます。」

と。

その後、一切コメントしてくることは無くなりました。

科学というものは、非常に役立ち、世の中に貢献しています。

が、古流の術及び技を科学的に分析、解明しようとすることは、時間の無駄です。

その時間を稽古に当てた方が為になります。

【その壱の十八】

古流に於いて、理合を頭で理解し、説明出来る必要はありません。

身体が出来ればそれで良いのです。

理合そのものが自分の命を護ってくるれることはありません。

護ってくれるのは、理合が染み込んだ身体です。

古流の稽古は、その流の理合が自然と身体に染み込む方法を取っています。

頭で稽古するのは時間の無駄です。

【その壱の十九】

古流では、その力量にならないと見えてこないこと、その力量だからこそ見えること、があります。

それが、

『見る人が見れば分かる。』

ということなのです。

【その壱の弍十】

今や、師から伝えられた技が真だと思ったら、大間違いです。

平和ボケした今のご時世、師の技もボケていると思っても間違いではありません。

私は、時宗先生から伝えられた術及び技全てに於いて、疑って掛かりました。

本当に全てです。

鵜呑みにしたことは一度もありません。

伝えられた術及び技一つ一つ本当に正しいのか、理合に合っているのか、事細かに検証しました。

石橋を叩きまくりました。

今でも叩き続けています。

結果としては、どこをどう切っても金太郎飴の如く同じ理合が表れ、そして一つ一つ確実に明確に身体が答えを出してくるので、信じざるを得なくなっただけです。

【その壱の弍十壱】

今、YouTubeの様々なチャンネルで ”四方投” が取り上げられています。

そのどれもが、”相手の腋を潜り投げるもの ”です。

そこでです、相手の腋を潜る際、相手は自分の背後にいます。

相手の状況状態は、全く見えません。

自分の視界から完全に無くなるのです。

自分の命を懸けている状態なのに、この様な非常にリスクの高いこと行うのでしょうか?

敵が自分の視界から消えるんですよ!

相手の腋を潜っている時に相手が反撃してきたらどうするのでしょうか?

動画に出て説明している方々は、この様な疑問を持っていないのでしょうか?

私は怖くて出来ません。

時宗先生より伝えられた四方投は、全く異なります。

四方投に至るプロセスも全く異なります。

【その壱の弍十弍】

世に出ている大東流や合気道に、”横面打ちに対する技” というのがありますが、剣術の立場から言えば、素手の相手に対し、初めから横面、所謂 ”斜の太刀筋” で攻撃をすることはありません。

それは、大刀であっても小刀であってもです。

素手の相手を上段より斬る場合は、相手が、逃げる、避けることを想定していますので、必ず相手の中心を斬ることを常としています。

相手が避けたりした場合、そこで初めて斜の太刀筋で対応するのです。

HPや動画で、横面打ちに対する技、と言っているのを見聞きする度に、『剣術を知らないなぁ。』と思ってしまうわけです。

【その壱の弍十参】

その弍十弍と繋がっているのですが、HPや動画等で、相手に対して真正面を向いたまま片手手刀で正面打ち、をしている場面を見ますが、これも剣術を知らないことを表しているんです。

片手で手刀というのは、小刀の代わりに手刀、という意味なのですが、小刀で相手に対する際は、自分の中心軸上で斬るために、必ず相手に対して身体が真横を向くようにします。

現在、剣術を全く知らないまま大東流等を修行する人がほとんどですので、どんどん技が変わってしまっています。

偽 が 真 にならないようにしなければなりません。

【その壱の弍十四】

古流の修行には、正月もゴールデンウィークも夏休みもありません。

1年365日、毎日が修行です。

【その壱の弍十伍】

塩田剛三さん(敢えて”さん”としています。)のお孫さんである塩田将大さんが、大東流を学ぶと称して、様々な道場へ出向かれていらっしゃいます。

もし、もし塩田将大さんが私共の道場に来られたら(絶対に有り得ませんが)、必ずこう仰られるでしょう。

「え?、、、、、。全然違うじゃないですか・・・・・!」

と。(令和4年元日)

【その壱の弍十六】

メディア等で『正しい姿勢が大切だ。』と様々な方が謳っています。

でもその謳っている全ての方々、正しい姿勢が出来ていないと言っても過言ではありません。

大きな声で謳っている方程、出来ていません。

その様な方に正しい姿勢に治してもらおうとしても、絶対に治りません。

かえって悪い姿勢になるだけです。

悪い姿勢から正しい姿勢に治すには、正しい姿勢の方に治して頂くしか方法はありません。

自分一人で治すことは絶対に不可能です。

そして、正しい姿勢の方に治して頂いたとしても、非常に時間が掛かります。

最低でも三年は掛かります。

身体に染み付いた姿勢というのは、そう簡単には治りません。

今まで悪い姿勢が楽と身体が感じているので、正しい姿勢を教わったとしても、またすぐに身体が悪い姿勢にしてしまいます。

教わった正しい姿勢は、身体にとって窮屈に感じるからです。

身体は、楽な方へ楽な方へと導きます。

そのために、正しい姿勢が楽だと身体が理解するまで、繰り返し繰り返し、時間を掛けて治していくしか方法はないんです。

【その壱の弍十七】

道場での稽古というのは、師に自分の身体の遣いを修正して頂く場です。

そのため、上手くやって師に誉められようとしては駄目なのです。

逆に、今自分の身体に染み付いている遣いを正直に師に見せ、修正して頂くのです。

師は、上手くやろうとしている人には修正を施しません。

何も言いません。

上手くやろうとする人には、素直さがないからです。

素直さがなければ、師がどんなに修正を施そうとしても、無駄となってしまいます。

師は、門下生のことを全て見極めています。

道場の稽古は、師に自分身体の遣いを修正して頂く場です。

そのため、自分の家での一人稽古が非常に重要なのです。

【その壱の弍十八】

口伝。

巷では、非常に高等、且つ特別な術、のように捉えられていますが、いえいえ、全く違います。

古流の術というのは、命が懸かっていますので、他人に盗まれないように細心の注意を払っていました。

そのために、言葉どおり、口伝え、で行われていた、というただそれだけのことです。

紙に書くという目に見える形で残すと、盗まれるリスクが非常に高くなります。

口伝えは目に見えませんから、盗まれるリスクが非常に低いために行われていた、というだけのことです。

ここで勘の良い方であればお分かりになると思いますが、巻物、そうです、そのとおりです。

本来であれば、存在自体、有り得ない物です。

もしあなたがいつ何時命を狙われるかもしれない時代に生きていたとして、自分の身体に染み付いた護身術を紙に書いて残しますか?

この時点で、巻物というものがどのようなものなのか、お分かりになるでしょう。

巻物を鵜呑みにすると、非常に危険です。

【その壱の弍十九】

YouTube等のメディアで見られる大東流の技。

そのほとんどが ”相手(敵)の身体を崩す” というものになっています。

が、真の大東流の術というのは、その全てに於いて、相手の身体を崩すものではありません。

本文の中でも書いていますが、一刀流の理合である、”合氣を外し、外し続ける” というだけのことです。

合氣を外すことで、結果的に相手の身体が崩れているだけなのです。

それを側で見ると、相手の身体を崩していると見えるので、いざ自分で行う時に、相手の身体を崩そうとしてしまいます。

門下生の人達にこの言葉を言うと驚きます。

「一刀流だけでなく、剣術では、相手の身体を崩すことはしていませんよ!」

と。

相手の身体を崩そうとするのは、一刀流の理合が身体に染み付いていないことを証明しています。

【その壱の参十】

巷では”大東流合氣杖”とか言って、杖の技を謳っている方がおられますが、大東流に杖の技はありません。

大東流は御式内です。

そこには杖は存在しません。

大東流は会津藩藩主及び会津藩に於ける将軍家謁見が許された数名にのみに伝われてきたものですので、この会津藩主及び会津藩に於ける将軍家謁見が許された人の移動は、籠もしくは馬です。

そこにも杖は存在しません。

杖は持たないんです。

もうお分かりですよね!

大東流には持たない杖の技はないんです。

杖を云々謳う以前に、一刀流兵法を徹底的に修行して頂きたいものです。

【その壱の参十壱】

武田惣角より伝えられたという大東流の技、それぞれ指導者によって異なっています。

それは、武田惣角という人は自分の門下生に、『技』は教えても『術』は教えなかった、ということを証明しています。

『術』を正確に教えていれば、『技』が異なるわけがありません。

武田惣角にしてみれば、当然かもしれません。

武田惣角が生きていた時代は、いつ何時、誰に、命を狙われるか分からない時代です。

門下生に術を教えたら、その門下生に命を狙われるかもしれません。

迂闊に『術』は教えられませんよね!

【その壱の参十弍】

ネット上で、

『大東流は、螺旋の動き、円の動き』

という言葉をよく見聞きします。

最初にこの言葉を発したのはどなたでしょうか?

最初にこの言葉を発した方は、一刀流を修行されたのでしょうか?

一刀流を正しく修行すれば、このような言葉が出てくることは絶対にないということを、身体で理解するでしょう。

【その壱の参十参】

YouTube等の動画で流れている大東流の技。

それらの技は、ただ掛け、掛けられているものですが、掛けられている側が反撃したらどうなるのか、非常に興味があります。

大東流の門下生の皆さん、師や先輩達に対して、遠慮は必要ありません、本気で攻撃し、本気で反撃してみて下さい。

それで師や先輩達の真の力量が分かると思います。

どんなに言葉巧みでも、身体は正直に力量を物語りますから。

【その壱の参十四】

YouTubeに、『武田時宗先生の合気上げ』と銘打った動画がUPされておりますが、この合気上げが時宗先生の合氣上げだと思われたら非常に困ります。

合氣上げ自体間違っていますが、動画の中で映っている手が、真の合氣上げが出来る手ではないことを証明しています。

動画、画像は、本当に正直ですね。

【その壱の参十伍】

相変わらずネット上で『脱力』という言葉が飛び交っています。

が、正しい姿勢が身に付いていれば、『脱力』という言葉が出てくることは決してありません。

姿勢が悪い人はどうしても身体全体に力が入ってしまうので、『脱力』、『力を抜け!』という話になってしまいます。

正しい姿勢は身体に余計な力が入ることは有りません。

大東流だけでなく古流に於いてはまず 正しい姿勢 が大前提です。

身体が正しい姿勢になっていなければ、その先はありません。

【その壱の参十六】

敢えて書きます。

現在、YouTube等の動画サイトにUPされている大東流の動画は、完全に理合を無視していると言っても過言ではなく、観るに耐えません。

【その壱の参十七】

『体幹を鍛えろ!』という言葉を度々見かけます。

そして体幹を鍛えるために、筋力トレーニングを勧めています。

が、根本的に勘違いされています。

体幹というのは、鍛えられるものではありません。

鍛えるということは、筋力、早い話、筋肉を付けるということです。

が、筋肉を付ければ付ける程、姿勢が悪くなっていきます。

特に、肩周りに筋肉を付けると、その筋肉が頚椎の本来の位置を邪魔するようになり、頭が前へ出てしまいます。

すると頭の重さに耐えられるように、更に肩周りに筋肉が付いてしまいます。

そしてさらに頭が前へ出て・・・。

悪循環となり、抜け出せなくなります。

最も重要なのは、

正しい姿勢を身に付け、如何なる状況状態に於いてもその正しい姿勢を維持する

ということです。

正しい姿勢を身に付け、如何なる状況状態に於いても正しい姿勢を維持出来るようになれば、『体幹』という言葉、能書きは必要ありません。

古流、特に剣術に於いては、姿勢が正しく、その正しい姿勢が維持出来なければ、重い刀を正しく遣うことは不可能です。

【その壱の参十八】

大東流に於いても一刀流に於いても、相手(敵)の身体を崩し、倒す筋力(筋肉)は必要ありません。

いつ如何なる状況状態でも正しい姿勢が維持出来れば、術は遣えます。

だから、歳を取っても、年齢に関係なく術が遣えるんです。

いつ如何なる状況状態でも正しい姿勢を維持出来るようになるには、それなりの稽古と時間が掛かりますが!

【その壱の参十九】

大東流の技を研究(と言って良いのか分かりませんが)されている方が大変多くいらっしゃいます。

が、大東流の技は、表面的なものを真似しても意味がありません。

技というのはあくまでも結果です。

その結果だけを真似し研究しても、時間の無駄です。

技は、術により成立します。

術は、遣える身体になって初めて成立します。

正しい稽古を正しい順序で正しく行わなければ、真の術が身体に染み込みませんし、技も成立しません。

【その壱の四十】

手の内。

実に厄介です。

自分の手の内なのに、自分の目で見えず確認出来ません。

そのため、自分が正しい手の内なのか知るすべが全くありません。

正しい手の内か否か、師に示して頂くしかないのです。

自分が正しい手の内か否か、悩むのは時間の無駄です。

身体が正しい手の内を知りませんから、答えが出るわけがありません。

答えが出ないことを悩んだって意味がありません。

兎にも角にも、師に示して頂くしかないのです。

それには、師自身が正しい手の内を修めていなければなりませんが・・・・・!

【その壱の四十壱】

大東流合氣武道のページにもかかわらず、『切落について』のページをご覧にいらっしゃる方が結構多いのには正直驚いています。

切落に悩まれていらっしゃる方が多いということでしょう。

私の知る限り、YouTube等の動画で真の切落を拝見したことは残念ながら一度もありません。

演武会等でも一度もありません。

真の切落をご覧になったら、いや、実際に切落を受けられたら驚くことでしょう。

『そんな馬鹿な???』って。

【その壱の四十弍】

大東流に於いて、術を遣っている時一瞬でもほんの少しでも脇が開いたら、その術は間違っています。

脇が開くということは、『術を遣う身体になっていない。』とも言えます。

真の術では、如何なる状況状態でも、脇が開くことは絶対にありません。

【その壱の四十参】

大東流が『御式内』であることは周知のとおりです。

しかし、YouTube等の動画サイトで、居捕、半座半立の技を観ることはほとんどありません。

何故なのでしょう?

どういう意味かお分かりですよね!

【その壱の四十四】

大東流に於ける『合氣之術』や『合氣二刀剣』や『御信用之手』等。

私は、これ等は、惣角先生が勝手に作ったお金を稼ぐための『商品』だと思っています。

何故って?

これ等は、大東流の術に於ける鉄則から完全に外れているからです

そしてこれ等は実際には一切通用しません。

真の大東流を修行しているならば、それがお分かりのことと思います。

【その壱の四十伍】

日本の弓は、何故このような形をしているかご存知ですか?

それは、剣術の手の内で遣うからです。

【その壱の四十六】

技というのは、術を遣うことによって成立します。

術はプロセスであり、技は結果です。

が、巷で行われている稽古は、技という結果です。

結果ありきで、その結果になるように稽古しているのです。

そのために、その結果になるように、勝手に都合良くプロセスを変えてしまっています。

従って、そこには理合が存在していません。

稽古に於いて、結果を追い求めてはいけないのです。

プロセスが正しければ、自ずと正しい結果に辿り着きます。

結果はどうでも良いのです。

正しいプロセスを身に付けるには、そのプロセスに値する身体の遣いを身に付けなければなりません。

武術というのは、相手(敵)の攻撃があって成立します。

相手も人間ですから、状況状態がどんどん変化していきます。

その状況状態に対して適確に対応しなければなりません。

自分に都合の良い状態に相手がなることは絶対にありません。

そんな状況状態が変化する相手に対して、同じ結果になるようにすること自体不可能です。

稽古に於いて、結果を追い求めても時間の無駄になるだけなのです。

【その壱の四十七】

丹田。

相変わらずこの言葉をよく耳にします。

丹田に気を入れて・・・

丹田に気を通して・・・

等々。

が、武の世界でこの丹田を気にしていたら、身体がロックされ術は遣えません。

試しに丹田に気を入れて正座してみて下さい。

その状態で相手に突きを入れられた時、瞬時に体捌き出来ますか?

出来ないでしょう!

身体は本当に正直に答えを出してくれるのです。

【その壱の四十八】

武に於いて、『剣禅一如』という言葉が存在し、山岡鐵舟も座禅を徹底的に行ったということから、それに習い、座禅をしなければならない、座禅をした方が良い、と思われている方が多いのではないでしょうか。

座禅をしたければすれば良いと思います。

でも、座禅をする時間があるのであれば、その時間を稽古に充てた方がより良いと思っています。

座禅と正座の稽古、座禅と姿勢の稽古、座禅と膝行の稽古、座禅と手の内の稽古、座禅と素斬りの稽古、行っていることが違うだけで、中身は一緒です。

【その壱の四十九】

メディアで武のタイトルに『神技』という言葉をよく見かけます。

しかし、武に神技はありません。

メディアが視聴率を上げるため、購買意欲を唆るために使っているだけです。

神技という言葉に誤魔化されたり振り回されないで下さい。

武に神技はありません。

【その壱の伍十】

武道、武術に於いて、段位や黒帯や肩書きを目指して稽古されている方がほとんどではないでしょうか。

でも、

でも・・・・・、です。

段位や黒帯や肩書きが自分の身を護ってくれるわけではない

ということを、肝に銘じておいて下さい。

武道、武術、特に古流に於いては、0 か 100 かです。

間はありません。

50まで行ったとしても、それは 0 でしかありません。

99.99まで行ったとしても、それは 0 と同じことです。

段位や黒帯や肩書きというのは、他人による評価でしかありません。

その他人が 100 の人とは限りません。

100 ではない人から段位や黒帯や肩書きを貰っても、何も意味は成さないのです。